※物語の内容に一部触れています。
評価:★★★☆☆ 3/5
クリストファー・ノーラン監督の『オデュッセイア』を先行上映で観てきた。
先に結論を書いてしまう。
映画としては面白い。
巨大な海、巨大な船、巨大な戦争。そして巨大な制作費。
約3000年前の物語を、現代ハリウッドが「これでもか」とばかりに巨大化してスクリーンへ放り込む。その力技だけでも映画館で観る意味はある。
ただ、ホメロスの『オデュッセイア』をきちんと読んだことがある人にとっては、少々物足りない。
星をつけるなら3つ。
悪くはない。
しかし、ノーランとホメロスという名前を並べられれば、こちらも勝手に神々の宴を期待してしまう。
出てきた料理は十分豪華だったが、個人的にはメインディッシュが何皿か足りなかった。
その代表が、アキレウスとナウシカアである。
そもそも『オデュッセイア』とは何なのか

『オデュッセイア』は、古代ギリシャの詩人ホメロスに帰される叙事詩である。
成立したのは紀元前8世紀頃とされ、『イリアス』とともに西洋文学の最も大きな源流の一つになった。
主人公はイタケーの王オデュッセウス。
彼はギリシャ軍の一員としてトロイア戦争へ参加する。
戦争に10年。
そして故郷へ帰るのに、さらに10年。
現代なら会社員が海外赴任から20年間帰ってこないようなものである。
当然、家庭はだいぶ大変なことになっている。
故郷イタケーでは妻ペネロペに大量の求婚者たちが押しかけ、オデュッセウスの財産を勝手に飲み食いしている。
息子テレマコスは父親をほとんど知らないまま育った。
一方のオデュッセウスも、帰宅途中に散々な目に遭う。
一つ目の巨人キュクロプス。
魔女キルケー。
セイレーン。
スキュラとカリュブディス。
女神カリュプソー。
そして何より、神々。
今の感覚で言えば、飛行機が欠航し、振替便も欠航し、そのうえ航空会社のCEOがポセイドンだった、くらいには帰れない。
だから『オデュッセイア』は単なる怪物退治の冒険譚ではない。
長い戦争を終えた人間が、本当に「家へ帰る」とはどういうことなのか。
その問いを描いた物語である。
その前に何があったのか――トロイア戦争

『オデュッセイア』を理解するには、その前に起きたトロイア戦争を知っておいた方がいい。
神話上、きっかけはトロイア王子パリスが、スパルタ王メネラオスの妻ヘレネを連れ去ったことである。
女性一人を巡ってギリシャ全土から軍勢が集まり、10年間戦争をする。
現代なら外交ルートでなんとかしてほしいところだが、そこは青銅器時代である。
メネラオスの兄アガメムノンがギリシャ諸国を率い、そこへ数々の英雄が集結する。
アイアス。
ディオメデス。
知略のオデュッセウス。
そして何より、最強の戦士アキレウス。
ホメロスのもう一つの叙事詩『イリアス』の中心人物である。
ただし『イリアス』は、トロイア戦争10年間を最初から最後まで描いているわけではない。
その中心にあるのは「アキレウスの怒り」である。
人類最古級の超大作文学のテーマが、かなり乱暴に言えば、
「俺はあいつが許せない」
なのだから面白い。
英雄も神も、思った以上に感情的である。
なお、有名な「トロイの木馬」は『イリアス』本編には登場しない。
『イリアス』はヘクトルの葬儀で終わり、その後のトロイア陥落は別の伝承や叙事詩、『オデュッセイア』中の回想などによって伝えられている。
そしてトロイア戦争そのものについても、どこまでが歴史で、どこからが神話なのかは分からない。
現在のトルコにはトロイと考えられる遺跡が存在し、紀元前1200年前後に都市が破壊された痕跡もある。
何らかの戦争が物語の核になった可能性はある。
しかし当然ながら、
「アキレウスが走り回り、神々が介入し、最後に巨大な木馬で全部解決しました」
まで史実と考える必要はない。
おそらく歴史と神話が何百年も混ざり続けたのだろう。
そして、その境界の曖昧さこそ古典の面白さでもある。
ノーラン版は、やはり少し足りない

今回の『オデュッセイア』は視覚的には圧倒的だった。
海。
船。
戦闘。
肉体。
怪物。
映画館という巨大な装置を使って古代世界を見せる、という意味では非常に正しい映画である。
ただし原典を知っていると、
「あそこ、そんな短くするのか」
「あれは消すのか」
という場面がどうしても出てくる。
もちろん仕方がない。
『オデュッセイア』を忠実に全部映画化したら、途中で休憩を挟むどころか、観客にホテルを用意する必要が出てくる。
しかもこれは大学の古典文学講義ではない。
ハリウッドの興行映画だ。
数億ドル規模の映画で、
「第11歌におけるホメロス的英雄観の転倒について」
を延々2時間やるわけにはいかない。
ポップコーンが冷める。
だから削る。
分かりやすくする。
現代人の感情へ翻訳する。
これは商業映画として当然の判断だと思う。
むしろ紀元前の叙事詩をここまで大規模な娯楽映画として成立させたこと自体、かなりすごい。
だから私は、この映画に「原作と違う!」と怒るつもりはない。
映画は文学の忠実なコピーである必要はない。
ただし。
アキレウスとナウシカアがいないのは、やはり惜しい。

アキレウスがいないのは、結構大きい
引用:
もちろん、アキレウスはトロイア戦争の終盤に死んでいる。
だから帰還するオデュッセウスの横にアキレウスが歩いていないのは当然だ。
しかし原典『オデュッセイア』では、オデュッセウスは冥界で死者となったアキレウスと再会する。
ここが重要なのである。
『イリアス』のアキレウスは、英雄的名声の象徴だ。
長生きを捨てても、永遠に語り継がれる栄光を選ぶ。
世界最強の戦士になり、若くして死ぬ。
非常に「英雄らしい」。
ところが死後のアキレウスは、オデュッセウスに対してまったく違う価値観を示す。
死者の王として君臨するくらいなら、貧しい人間の使用人でもいいから生きていたい。
要するに、
死んでから有名でも、死んでいたら意味がない。

身も蓋もない。
しかし、この一言によって『イリアス』の英雄観が反転する。
アキレウスは栄光のために死んだ。
オデュッセウスは格好悪くても、嘘をついてでも、逃げてでも、生きて家へ帰ろうとする。
この二人の対比があるから、『オデュッセイア』は単なる冒険物語ではなくなる。
「英雄とは華々しく死ぬ人間なのか」
それとも、
「何としてでも生きて帰る人間なのか」。
約3000年前の文学が、すでにこの問いを投げかけている。
だから、ここは見たかった。
個人的には怪物を一匹減らしてでもアキレウスを出してほしかった。
CGの怪物はまた作れる。
アキレウスとオデュッセウスが生と死について話す機会は、そう何度もない。
そして、ナウシカアもいない

引用:
もう一つ、かなり残念だったのがナウシカアである。
日本では名前だけ聞くと別の有名作品を思い浮かべる人も多いだろうが、その名前の源流の一つが『オデュッセイア』に登場するパイアーケス人の王女ナウシカアだ。
漂流したオデュッセウスが海岸へ打ち上げられ、ほとんど何も持たない状態で彼女と出会う。
ここまでのオデュッセウスは、怪物や嵐や神々に延々と振り回されてきた。
ところがナウシカアの場面では、物語の温度が一度変わる。
戦いでもない。
罠でもない。
神との対決でもない。
見知らぬ土地に流れ着いた、みすぼらしい旅人を、一人の若い女性が助ける。
非常に静かな場面だ。
だが、この静けさが大事なのである。
『オデュッセイア』は怪物から怪物へ移動するゲームのステージ攻略ではない。
オデュッセウスは、人に助けられながら少しずつ「人間の世界」へ戻っていく。
ナウシカアとパイアーケス人のエピソードは、その大きな転換点になっている。
戦争の世界。
怪物の世界。
神々の世界。
そこから再び、食事があり、衣服があり、礼儀があり、人間同士が話をする世界へ帰ってくる。
つまりナウシカアは、イタケーへの物理的な帰還の前に起きる、オデュッセウスの人間社会への帰還を象徴しているようにも読める。
ここを丸ごと抜いてしまうと、物語は確かに速くなる。
しかし同時に、『オデュッセイア』独特の余白も失われる。
ハリウッド超大作なのでテンポが必要なのは分かる。
分かるのだが、英雄が怪物と戦っている時間ばかりではなく、浜辺で知らない人に服をもらっている時間も『オデュッセイア』なのである。
むしろ長い旅をした人間に必要なのは、最後にはそういうものなのかもしれない。
怪物を倒す剣ではなく、
着る服と、食事と、家まで送ってくれる人。
そう考えると、ナウシカアがいないのもかなり大きい。
アキレウスとナウシカア――削られた二人が象徴するもの
面白いことに、この二人はまったく違う役割を持っている。
アキレウスは「死」を通じてオデュッセウスを照らす。
ナウシカアは「生」を通じてオデュッセウスを迎える。
アキレウスとの会話によって、
「華々しく死ぬより、生きていた方がいい」
という価値観が浮かび上がる。
そしてナウシカアとの出会いによって、
「生き残った人間は、もう一度社会へ帰らなければならない」
という別のテーマが見えてくる。
この二人がいないことで、映画版は原典よりずっと直線的な冒険映画になったように感じた。
もちろん、それが興行作品としての正解なのだろう。
ただ、私が『オデュッセイア』で好きなのは、まさにこういう寄り道なのである。
20年間も家に帰れなかった男の物語なのだから、そもそも一直線に進むはずがない。
ただ、ノーランは「ムカつく」を撮るのがうまい

引用:
一方で、今回改めて感じたこともある。
クリストファー・ノーランは、人間の
「ムカつく」
を撮るのが非常にうまい。
許せない。
侮辱された。
裏切られた。
自分だけ損をした。
あいつには負けたくない。
こうした巨大な理念とは程遠い、極めて小さな感情である。
ところが現実の歴史を振り返っても、大事件の裏側には意外とこういうものがある。
国家。
戦争。
科学。
政治。
巨大な看板を掲げていても、その中で動いている人間は、昨日言われた一言をまだ根に持っていたりする。
『オッペンハイマー』でもそうだった。
人類史を変える核兵器の物語の裏側で動いていたのは、名誉、嫉妬、屈辱、プライドだった。
『オデュッセイア』でも、この人間臭さはよく出ていた。
そして考えてみれば、『イリアス』だってアキレウスがアガメムノンに腹を立てるところから始まる。
3000年前から人間はあまり進歩していない。
兵器だけはだいぶ進歩した。
ただし、古代世界とノーランは少し相性が悪い気もする
ここからは完全に好みの話になる。
個人的に、ノーランは第一次世界大戦以前の歴史を扱うと、少し魅力が落ちる気がする。
理由はおそらく、ノーランが非常に現代的な監督だからだ。
彼が描く人物は、時間、記憶、罪悪感、制度、合理性といった現代人にも理解しやすい問題の中で苦しむ。
それは『メメント』でも、『インセプション』でも、『インターステラー』でも、『オッペンハイマー』でも非常に強い。
ところが古代ギリシャの人々は、私たちとは違う世界に住んでいる。
神々は比喩ではない。
名誉も家も血統も、現代人とは重みが違う。
その精神世界をそのまま映画にすると、現代の観客には理解しづらい。
だから現代的な人物へ翻訳する。
すると今度はホメロスから少し遠ざかる。
この板挟みが、今回の映画にはあった気がする。
ノーランが悪いわけではない。
むしろ誰が撮っても難しい。
ホメロスは紀元前8世紀の吟遊詩だ。
制作会議でマーケティング担当者に、
「主人公への共感ポイントをもう少し明確にしてください」
などと言われて書かれた作品ではない。
次は、誰も読んだことのないノーランを見たい

引用:
だから映画館を出て、一番思ったことは意外にもこれだった。
次はオリジナル作品を観たい。
『インセプション』。
『インターステラー』。
『TENET』。
ノーランの面白さは、誰かの世界を豪華に再現すること以上に、自分で奇妙なルールを作り、その中へ観客を放り込むところにあると思う。
時間を逆行させる。
夢の中へ潜る。
宇宙と時間をねじ曲げる。
そして観客は上映終了後、
「結局あれは何だったんだ」
と友人と話しながら帰る。
それがノーラン映画の楽しさでもある。
『オデュッセイア』は壮大だった。
映画館で観る価値もある。
ホメロスを知らない人が、この映画をきっかけに原典を読むなら、それだけでも十分意味があるだろう。
興行映画として考えれば、これくらいの整理も当然だ。
だから星3つ。
悪くない。
でも、まだ物足りない。
ノーランという監督をホメロスの船に乗せるより、私はノーラン自身に船を造らせてみたい。
オデュッセウスは20年かけて家に帰った。
ノーランにはそろそろ、自分の世界へ帰ってきてほしい。



