エットレ・ソットサス(Ettore Sottsass)は1917年オーストリア=ハンガリー帝国のインスブルックで生まれながら、戦後イタリアのデザインの第一人者として戦後イタリアン・デザインに対する世界的な評価を高めた一人という変わった経歴のデザイナーであり、建築家、インダストリアルデザイナーである。この展覧会に足を運ぶ時、またデザイナーと呼ぶべきなのか?アーティストではないのか?という疑問が浮かぶ非常に多彩な人物である。そんな彼の展示が2026年6月23日〜10月4日に東京都中央区の東京駅や日本橋・京橋駅近くのアーティゾン美術館で開催されている。

この展覧会はデザインという観点だけでなく、彼のデザイナーとしての軌跡もうまくキュレーションされた展示となっていて非常に魅力的である。そんな展示をより楽しむための知識についてと展示の見どころ今回は紹介していきます。
~ 知っておきたい知識編 ~
なぜエットレ・ソットサスは「正しいデザイン」を壊したのか?
——インスブルックからメンフィスまで

赤、黄色、青。
斜めに伸びる棚。安価なプラスチック・ラミネート。家具というより、ロボットや祭壇、あるいは巨大な玩具のようにも見える。
1981年、エットレ・ソットサスがデザインした《Carlton》は、20世紀後半のデザインを象徴する作品のひとつになった。
しかし不思議なのは、ソットサスが最初からこうした前衛的なデザイナーだったわけではないことだ。
若い頃の彼は建築を学び、戦後にはインテリアや工業製品を設計し、オリベッティではコンピューターやタイプライターまで手掛けている。
つまり彼は、「正しい近代デザイン」を知らなかったから壊したのではない。
むしろ、その中心にいたからこそ壊した。
では、なぜソットサスは合理的なモダンデザインの世界から、色彩と装飾、象徴性に満ちたラディカルなデザインへと向かったのだろうか。
その人生をたどると、20世紀のデザインそのものが抱えていた矛盾が見えてくる。
オーストリア生まれなのに、なぜ「イタリア人」なのか?
エットレ・ソットサスは1917年、現在のオーストリア・インスブルックで生まれた。

そのため、美術館の作品解説を見ると少し奇妙な表記に出会う。
“Italian, born Austria”——「イタリア人、オーストリア生まれ」
“Italian, born Austria”——「イタリア人、オーストリア生まれ」
メトロポリタン美術館も彼をこのように紹介している。
理由は彼の家族にある。
父エットレ・ソットサス・シニアはイタリア人建築家。一方、母アントニア・パイントナーはオーストリア人だった。ソットサスは母の故郷であるインスブルックで生まれたのである。
そして1929年、一家はイタリアのトリノへ移住する。
その背景には建築家だった父の強い意向があった。息子にも建築を学ばせるためだった。
ソットサスはトリノ工科大学で建築を学び、1939年に卒業。その直後にはイタリア軍へ召集され、第二次世界大戦を経験する。
つまり彼は、地理的にはオーストリアで生まれながら、教育、軍歴、そしてその後のキャリアの大部分をイタリア社会の中で形成していった人物だった。
ただし、この「境界に生まれた」という事実は、後のソットサスを考えるうえで面白い。
彼は生涯を通じて、ひとつの国、ひとつの様式、ひとつの思想に閉じこもらなかったからだ。
父が信じた「機能主義」の世界
ソットサスの父は、近代建築の合理主義を信奉する建築家だった。
ソットサスの父は、近代建築の合理主義を信奉する建築家だった。
20世紀前半のヨーロッパでは、装飾を減らし、合理性や機能性を重視するモダニズムが大きな力を持っていた。
「形は機能に従う」。
そうした思想の延長線上では、良いデザインとは、無駄がなく、合理的で、誰にとっても使いやすく、大量生産できるものだった。
若いソットサスもまた、その世界から出発する。
戦後は父の建築事務所を手伝い、その後ミラノへ移住。建築、インテリア、展覧会、舞台美術、雑誌、工業デザインなど、さまざまな分野の仕事を始めた。
だから、ソットサスを単純に「インテリアデザイナーからアーティストになった人物」と考えると、少し違う。
彼は最初から建築家であり、工業デザイナーであり、画家でもあった。
変化したのは職業ではない。
「デザインは何のために存在するのか」という考え方だった。
オリベッティで「良いデザイン」の頂点へ
1950年代後半、ソットサスはイタリアを代表する企業オリベッティのデザインコンサルタントとなる。
ここで彼は、《Elea 9003》などのコンピューターシステムをはじめ、オフィス機器や家具を手掛けていった。
この時期の作品は、まだ非常に合理的だ。
つまりソットサスは一度、モダニズム的な工業デザインの「成功者」になっている。メトロポリタン美術館も、彼の初期キャリアを機能主義的・合理主義的なものとして位置づけている。
ただ、その中から徐々に異物が現れる。
象徴的なのが、ペリー・キングとともに手掛けた携帯タイプライター《Valentine》だ。
鮮烈な赤いプラスチックのボディ。
会社のオフィスに静かに置かれる事務機器というより、持ち歩きたくなるファッションアイテムのようだった。
ここにはすでに、後のソットサスが見える。
機械は、ただ働けばいいのか。
家具は、ただ座れればいいのか。
デザインとは、本当に「便利にすること」だけなのだろうか。
ソットサスは次第に、機能だけでは説明できないものへと向かっていく。
アメリカとインドが、「機能の外側」を見せた
その変化を加速させたのが旅だった。
1956年にはアメリカへ渡り、ニューヨークの著名デザイナー、ジョージ・ネルソンのスタジオで短期間働いている。
そして特に大きかったのが、1961年のインド旅行だった。
ソットサスは旅を通じて、マンダラやヤントラ、ストゥーパ、宗教的な器物など、西欧近代デザインとはまったく異なる造形文化に触れていく。
そこでは、物は単なる道具ではなかった。
色や形には象徴があり、物と人間との間に、精神的、身体的、時には宗教的な関係が存在していた。
メトロポリタン美術館は、1960年代以降のソットサスについて、機能を超えて「象徴性、感情、世界各地の文化や歴史」を取り込む方向へ進んだと説明している。
それは、西洋のモダニズムとはほとんど逆の発想だった。
大量生産のために文化的差異を消すのではなく、
人はなぜ、その物に惹かれるのか。
そこに再び意味を与えようとしたのである。
家具なのか、彫刻なのか——境界が崩れ始める
1960年代半ばになると、ソットサスの作品は明確に変わる。
巨大な陶器のトーテム。
極端な色を与えられた《Superbox》。
家具なのか、建築なのか、彫刻なのか判然としないオブジェ。
メトロポリタン美術館は、1965〜66年の陶器作品や1966年から始まった《Superboxes》を、後のメンフィスへとつながる重要な実験として位置づけている。
ここでソットサスは、家具を「便利な道具」から解放し始める。
収納するための箱なら、なぜそこまで巨大である必要があるのか。
家具なら、なぜ彫刻のように見えてはいけないのか。
そもそも、「家具らしい家具」である必要はあるのか。
この問いは、やがてデザインそのものへの批判になっていく。
「便利な生活」そのものを疑う
1970年代、イタリアでは「ラディカル・デザイン」と呼ばれる動きが勢いを増した。
ArchizoomやSuperstudioなどの若いデザイナーたちは、近代建築や大量消費社会そのものに疑問を投げかけていた。
ソットサスもその中心的存在のひとりとなる。
1972年、ニューヨーク近代美術館で開催された「Italy: The New Domestic Landscape」展では、家具やキッチン、シャワーなどを巨大な可動式ユニットに組み込み、「リビング」「キッチン」といった従来の住宅の区分そのものを解体するような空間を提示した。
さらに《The Planet as Festival》では、都市や労働、消費社会から人間が解放された未来を描く。
星を見るためのスタジアム。
川の上で音楽を聴くための筏。
自然の中に置かれた巨大な装置。
これは、もはや商品の提案ですらない。
「人は、そもそもどんな生活をするべきなのか」という問いそのものがデザインになっている。
インテリアデザインから始まったソットサスの仕事は、いつの間にか社会批評とアートの境界まで進んでいた。
そして64歳で「メンフィス」を始める
興味深いのは、ソットサスの最も有名な革命が、若い頃ではなく晩年に近づいてから起きたことである。
1981年。
ソットサスは64歳だった。
彼の自宅に若いデザイナーたちが集まり、新しいデザイングループが誕生する。
その名が「Memphis」。
グループ名には、当時流れていたボブ・ディランの曲、アメリカのメンフィス、そして古代エジプトの都メンフィスなど、複数の意味が重ねられていたとされる。
メンフィスが発表した家具は、それまでの「良いデザイン」の常識を猛烈な勢いで裏切った。
原色。
幾何学模様。
派手な装飾。
安価なラミネート素材。
奇妙な形。
その代表が《Carlton》である。
本棚であり、間仕切りであり、引き出しでもある。
しかし同時に、巨大な抽象彫刻にも見える。
高級家具でありながら、1950年代のダイナーのカウンターにも使われていたような安価なプラスチック・ラミネートを表面に使う。
「高級」と「安物」。
「家具」と「アート」。
「機能」と「装飾」。
ソットサスは、あえて境界を混ぜていった。
ソットサスが壊したのは、「美しさ」ではない
メンフィスを見ると、ソットサスは単に「派手なものが好きだった人」にも見える。
しかし彼が壊そうとしていたのは、ミニマルな美しさそのものではない。
彼が疑ったのは、
合理的であることだけが、人間にとって正しいという考え方だった。
便利である。
無駄がない。
大量生産できる。
長く使える。
それらは確かに重要だ。
しかし人間は、効率だけで物を選んでいるわけではない。
好きな色がある。
奇妙な形に惹かれる。
意味のないものを飾る。
思い出の物を捨てられない。
時には、役に立たないものにこそ価値を感じる。
ソットサスは、近代デザインが削り落としてきた、そうした人間の非合理性をもう一度デザインの中へ戻そうとした。
だから彼のキャリアは、
「インテリアデザイナーが、突然アーティストになった物語」
ではない。
むしろ、
合理的なデザインを誰よりも知っていたデザイナーが、その合理性だけでは人間を説明できないと気づいていく物語だった。
インスブルックに生まれ、トリノで建築を学び、ミラノの産業デザインの中心で働き、アメリカやインドを旅し、最後には「家具とは何か」という定義さえ壊してしまった。
エットレ・ソットサスという人物の面白さは、ひとつのスタイルを完成させたことではない。
自分が一度信じた「正しさ」さえ、疑い続けたことである。
そしてその先に現れたのが、あの奇妙で、明るく、今見ても少し未来的なメンフィスの世界だった。
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ここまでが美術展に行く前に知っておきたい知識である。
~美術展の見どころ~
一番の特徴はなんと言ってもソットサスの作風やデザインの流れを知れる展示の流れとそれに適した美術品の配置である。

まさに家具のデザインから始まり、そこからどう評価されて、どんな作風に変わっていくのかを歩きながら体感することができ、まるでエットレの人生をたどるような感覚を味わうのである。

立体物が並ぶ当展覧会では、また二つ目の見力としてどうまわってどう鑑賞し、何を感じるかに再現性がなく、まさにアートである点が特徴である。
そこにいる人たちがどこに足を止めるかを考えても必ず同じ一瞬はありえないと気づかせてくれる。

3つ目はインスタレーションまであるという展示のバラエティ性であろう。
1950年代から60年代を経て、2007年に没したエットレであるが、少し長生きではあるもののアンディ・ウォーホルなど同時代をいきた彼の商業的成功の後のアーティスティックな方向への軌道はまさにウォーホル、ミロなどといったデザインとアートを行き来した人たちを連想させる。
これ以上に言いたいことはいっぱいあるのであるが、これ以上言うとまた無粋になる気がしていて、ぜひ足を運んでほしい展示の一つである。


