時にはうんざりもするほど多くのフィクションに囲まれて生きている私たちにとって、「幽霊」というものはいたって当たり前の存在だ。それは主人公を呪ったり、あるいは優しく見守ったり、はたまたカメラに映ったり、しばしば主人公自身が幽霊になってしまうこともある。概念自体が当たり前すぎるゆえ、「幽霊」をフィクションで扱うために様々なアプローチが実践され、それは「ホラー」という文化におけるひとつの歴史となっている。ありきたりでつまらないホラーは、出てくる幽霊だってありきたりでつまらない。私たちは、「幽霊」という存在に、常に批評性をもって接していると言えるだろう。
実在を信じていてもいなくても、こんな風にあらゆる“パターン”の幽霊を見ることで、だんだんとその輪郭がぼやけていく。たとえば『ほんとにあった!呪いのビデオ』シリーズや、それに類する心霊ビデオの数々において「幽霊」とは、画面に映ったコワイ物の総称に過ぎない。理屈の通らない概念をごく手軽に物語に取り入れることのできる便利な口上として機能するのが現代の幽霊なのだ。もっと丁重に扱えと非難したいわけでは決してない。私自身も創作活動をするうえで、「幽霊」には非常に助けられている。ひたすらデフォルメされ続けてきた結果、「幽霊そのもの」はすっかり形骸化してしまった、良くも悪くもね。そういった話である。
2005年、オーストラリア。ヴィクトリア州アララトのダムで、家族と泳いでいた16歳の少女・アリスが行方不明になった。捜索活動の末、溺死体で見つかった彼女は、遺された3人の家族により手厚く葬られたが、しばらくしてカメラを趣味とする弟・マシューの撮影した写真や動画にアリスの姿が写り込むようになる。母・ジューンは「娘はまだ生きているのでは」と主張し、家族の中で唯一アリスの遺体を目視で確認した父・ラッセルを説得して、墓の掘り起こしを要求するのだが……。
2008年製作のフェイク・ドキュメンタリー・ホラー。アリス・パーマー失踪事件を記録した架空の番組のような構成で、昨今の主流とはちょっと違い、喪失感に苦しむ家族の再起を描いたドラマ仕立てになっている。便宜的にホラーとは言ったが、本作に登場する「幽霊」を、はたして誰が怖がるだろうか。『レイク・マンゴー ~アリス・パーマーの最期の3日間~』における「幽霊」とは、ただ「アリス・パーマー」である。それ以上でも以下でもない。遺族にとって、死人が蘇るのは喜ばしいことだ。しかし、目の前のそれはいわゆる「幽霊」であり、私の知るその人ではないかもしれない。もしかしたら何らかのメッセージを送ってきているのかもしれない。深い悲しみと共に、ある種の混乱を味わうこととなるだろう。
『レイク・マンゴー』は、フェイク・ドキュメンタリーの利を活かして「幽霊そのもの」と、その「目撃者」の関係を現実的に描いた作品だ。幽霊を怖がることが目的ではないから、私はあまりホラー映画とは思っていない。あくまでもシリアスなドラマであり、ホラーが苦手だという人も是非見てみてほしい一作である。冒頭で話したような、ジャンル的な「幽霊」に慣れ親しんでいればいるほど、本作のそこはかとない虚しさに苦しむだろう。「幽霊」とは、「その人」である。この当たり前の原則に立ち返るような本作を、散々とホラーに触れている私は何度見ても感動してしまう。
死はあまりにも恐ろしい。時間と言い換えてもよい。どれだけの愛も、時間の前に敗北する。悲しい科学を我々は生きている。家族を愛し、友人を愛し、恋人を愛し、少なくないエゴと秘密を抱え、死んでしまったアリス・パーマーを覚えていよう。「忘れずにいる」ことこそが、実践可能な最大の愛である。私はあなたのことを知っていて、そばにいて、たとえ離れてしまっても、ずっとあなたを思い出そう。肉体が現存しているかどうか、愛の前ではそんなこと、まったくくだらないものでしかないだろう。
ライター:城戸
