先日、筆者は仕事でロンドンとケンブリッジに行ってきた。学生時代、オックスフォードの寮で食べた食事のせいもあり、筆者自身、お世辞にもイギリス料理に美味しいという記憶はあまり残っていなかった。せいぜいフィッシュ&チップスくらいだろうか。
しかし、今回の滞在で、その認識を改めさせられることになった。
イギリス料理が美味しくないのではない。単に、美味しいものを選んで食べていなかったのだ。
そして、ひとつだけ言っておきたい。
せっかくロンドンまで行って、イタリア料理やアメリカ料理ばかり食べて帰ってきていないことを願う。
もちろん、ロンドンは世界中の料理が集まる国際都市だ。インド料理も中東料理も、イタリア料理も素晴らしい。しかし、だからといって英国生まれの食文化を素通りしてしまうのは、実にもったいない。

皆さんは『ブリティッシュ・ベイクオフ(The Great British Bake Off)』という番組をご存じだろうか。一般の参加者たちがケーキやパン、パイ、焼き菓子の腕を競い合う、英国の人気テレビ番組である。単なる料理番組と侮ってはいけない。英国で数百万人もの人々が視聴する、まさに国民的番組のひとつだ。

この番組を見ていると、ひとつの疑問が湧いてくる。
これほど焼き菓子に情熱を注ぐ国の料理が、本当に全部まずいはずがあるのだろうか?
英国の食文化を理解するうえで、この問いは意外なほど重要なのかもしれない。
1. イギリスの美味しいものは、ベーコンとチーズから始まる

イギリスの食事を語るとき、まず挙げたいのはベーコンとチーズだ。
日本でベーコンといえば、薄切りで脂の多いものを想像する人が多いかもしれない。しかし英国で一般的なバックベーコン(Back Bacon)は、ロース肉を含む大きな部位から作られることが多く、肉そのものの旨味がしっかりしている。
カリカリに焼かれたアメリカンスタイルのベーコンも美味しいが、英国のベーコンはどちらかというと「肉を食べている」という満足感がある。
これをパンに挟んだだけのベーコン・バティ(Bacon Butty)が、実にいい。
凝ったソースも、飾りつけも必要ない。焼きたてのベーコン、バターを塗ったパン、好みによってブラウンソース。それだけで朝食として成立してしまう。
そして、もうひとつ忘れてはいけないのがチーズだ。
英国には、チェダー、スティルトン、レッド・レスター、ウェンズリーデールなど、実に多彩なチーズが存在する。
特に熟成チェダーは、日本のスーパーで見かける一般的なチェダーチーズとは印象が違うかもしれない。ナッツのような香ばしさ、熟成による複雑な旨味、そして心地よい塩気がある。
ブルーチーズが好きなら、スティルトンもぜひ試してほしい。
パンとチーズ、そしてチャツネやピクルスを盛り合わせた「プラウマンズ・ランチ(Ploughman's Lunch)」は、こうした英国の食材を楽しめるパブの定番料理だ。
フランスやイタリアほど華やかなチーズ文化を想像しないかもしれないが、英国のチーズも決して侮れない。
むしろ、こうした乳製品や加工肉の美味しさに、英国料理の底力が表れているのではないだろうか。
2. パブで食べるミートパイは、フィッシュ&チップス以上に試してほしい

英国の食事を楽しむなら、レストランの星の数ばかりを追う必要はない。
むしろ、昔ながらのパブに入ってみてほしい。
日本ではパブというと酒を飲む場所という印象が強いが、英国のパブは食事を楽しむ場所でもある。最近では料理にこだわった「ガストロパブ」も珍しくない。
そこで筆者がおすすめしたいのが、ミートパイだ。
特に「ステーキ&エール・パイ(Steak and Ale Pie)」は、一度食べてみる価値がある。
ビールでじっくり煮込んだ牛肉を、パイ生地で包んで焼き上げた料理である。肉の旨味が溶け込んだ濃厚なグレービーソースと、バターの香りがするパイ生地の組み合わせがいい。
付け合わせはマッシュポテトやグリーンピース。
見た目に華やかさはない。しかし、寒い日にパブでビールを飲みながら食べるには、これ以上ないくらい相性がよい。
チキン&マッシュルーム・パイもおすすめだ。
ここで注意したいのは、英国のパイには甘いものだけでなく、肉や野菜を使った食事用のパイが豊富に存在するということ。
フランス料理がソースと技術によって素材を昇華させる文化だとすれば、英国のパブ料理には、素材と焼き上げる技術を組み合わせた、もっと素朴な魅力がある。
そしてこの素朴さこそ、英国の食文化を理解する鍵なのかもしれない。
3. イギリスの本領は、実はスイーツにある

筆者が最も強調したいのは、ここだ。
英国の食文化を評価する際、甘いものを抜きにしてはいけない。
先ほどの『ブリティッシュ・ベイクオフ』が象徴するように、英国には家庭でケーキや焼き菓子を作り、紅茶とともに楽しむ文化が根づいている。
とりわけ、次の3つは英国を訪れたらぜひ食べてみてほしい。
### スティッキー・トフィー・プディング(Sticky Toffee Pudding)
英国の伝統的な温かいデザートのひとつ。デーツを使ったしっとりしたスポンジケーキに、濃厚なトフィーソースをかける。
バニラアイスやカスタードを添えることも多い。
名前だけでは想像がつきにくいが、濃密なキャラメルのような甘さと、温かいスポンジの組み合わせは、実に英国らしい。
甘党なら、ぜひ一度。
ヴィクトリア・スポンジ(Victoria Sponge)

英国のアフタヌーンティーを代表するケーキのひとつだ。
スポンジケーキの間にジャムとクリームを挟んだ、きわめてシンプルなもの。
しかし、このシンプルさがいい。
日本のショートケーキとは異なり、バターの風味が豊かで、しっかりとした生地のものが多い。甘酸っぱいジャムと紅茶の相性も抜群だ。
イートン・メス(Eton Mess)

イングランドの名門校イートン・カレッジに名前を結びつけられるデザート。
イチゴ、メレンゲ、ホイップクリームを混ぜ合わせたもので、見た目は名前の通り少々「ごちゃ混ぜ」だ。
だが、サクサクしたメレンゲとクリーム、果実の酸味の組み合わせは見事である。
英国らしいユーモアさえ感じる一皿だ。
いずれも、技巧を凝らしたフランスのパティスリーとは違った方向に魅力がある。
英国のスイーツには、日常の暮らしの中に溶け込んだ贅沢があるのだ。
4. スコーンは「紅茶のおまけ」ではない

そして忘れてはいけないのが、スコーンだ。
日本でもアフタヌーンティーは人気だが、英国で食べるスコーンはまた少し印象が違う。
外側は軽く香ばしく、中はほろりとした食感。これにクロテッドクリームとストロベリージャムをたっぷりのせる。
特にクロテッドクリームは、英国を訪れた際にぜひ味わってほしい乳製品だ。
バターともホイップクリームとも異なる、濃厚でありながら柔らかな口当たりが特徴で、スコーンと非常によく合う。
ちなみに英国では、ジャムとクリームのどちらを先にのせるかが、コーンウォール式とデヴォン式の違いとして語られることがある。
そんな些細な違いが話題になるほど、スコーンは英国の人々の暮らしに深く入り込んでいる。
アフタヌーンティーといえば豪華なホテルを連想しがちだが、街の小さなティールームで紅茶とスコーンを楽しむだけでも、十分に英国らしい時間を過ごせるはずだ。
5. 英国は実は、お酒なら何を飲んでも美味しい国なのではないか

そして、もうひとつ英国を訪れて気づくことがある。
この国は、実は酒がとても美味しい。
ビールはもちろん、ジン、サイダー、ウイスキー、さらには近年評価を高めているイングランド産ワインまで。
もちろん、どの銘柄でも無条件に美味しいという話ではない。ただ、これほど多様な酒に、それぞれ固有の文化が根づいている国もなかなかない。
まずはビールだ。
英国でぜひ試してほしいのが、エール(Ale)。特にパブで樽から注がれるカスクエールは、英国の酒文化を体験するにはうってつけだ。
日本のラガービールに慣れていると、最初は少し驚くかもしれない。
炭酸は比較的穏やかで、温度もキンキンに冷えているわけではない。しかし、麦芽の香ばしさやホップの風味をゆっくり楽しめる。
実際、カスクエールは品質管理されたセラーの温度で提供される酒であり、単に「ぬるいビール」というわけではない。
先ほどのミートパイやチーズとの相性は抜群だ。
そして、ジン。
ロンドン・ドライ・ジンというスタイルが存在するように、ジンは英国の酒文化を語るうえで欠かせない存在である。
ジュニパーベリーを中心としたハーブやスパイスの香りは、食前酒としても実に心地よい。ロンドンには個性的なクラフトジンを提供するバーも多い。
もう少し気軽に飲みたいなら、サイダー(Cider)もおすすめだ。
英国のサイダーはリンゴを発酵させた酒で、日本でいう甘い炭酸ジュースのようなものばかりではない。辛口で複雑な味わいのものから、果実味の豊かなものまで幅広い。
特にイングランド西部には伝統的なサイダー文化があり、料理と一緒に飲んでも美味しい。
ウイスキーも忘れてはいけない。スコットランド産のスコッチはもちろん、イングランドでも蒸留所が増え、多様な銘柄が生まれている。
さらに注目したいのが、イングランド産のスパークリングワインだ。
イングランド南部の冷涼な気候を生かしたワイン造りは、今や世界的にも知られる存在になりつつある。伝統製法を用いたスパークリングワインは、シャルドネやピノ・ノワールなどを中心に造られており、その品質の高さが英国産ワインの評価を押し上げてきた。
英国といえばビールとジン、というイメージも、そろそろ更新した方がいいのかもしれない。
6. なぜ英国料理は「まずい」と思われてきたのか
ここまで読んで、「それでもイギリスの食事には当たり外れが多いのでは」と思う人もいるだろう。
その指摘には、筆者もある程度同意する。
何しろ、自身も学生時代にオックスフォードの寮の食事で、あまりよい思いをしなかった一人なのだから。
ただ、今回改めて感じたのは、英国料理を一括りにして評価すること自体に、少々無理があるということだ。
英国の伝統的な食文化には、フランスやイタリアのような、華やかな皿の上の完成形を追求する料理とは別の魅力がある。
例えば、上質なベーコンやチーズ。焼きたてのパイ。紅茶と一緒に食べるスコーン。パブでゆっくり飲むエール。
これらは、必ずしも高級レストランで食べるものではない。
むしろ、普段の生活の中で繰り返し楽しむ食べ物だ。
**英国には、料理を通じて非日常を演出する文化だけでなく、日常そのものを少し豊かにする食文化がある。**
この点は、英国の服装やインテリア、あるいはパブという空間にも通じているように思う。
少し古びた木製のテーブル。使い込まれた椅子。雨の降る午後に飲む紅茶。
完璧に磨き上げられたものだけが美しいわけではない。
そう考えると、英国の食文化には、この国らしい価値観が表れているのかもしれない。
7. ロンドンを訪れたら、まず何を食べるべきか?
初めて英国料理をきちんと楽しむ人に向けて、筆者なら次のような一日をおすすめしたい。
朝食:ベーコンを主役にしたイングリッシュ・ブレックファスト

まずはバックベーコンを味わいたい。卵やトースト、ソーセージとの組み合わせで英国の朝を始める。
昼食:チーズを楽しむプラウマンズ・ランチ
チェダーやスティルトンを、パン、チャツネ、ピクルスと一緒に。英国の乳製品の美味しさを知るには絶好の一皿。
午後:ティールームでスコーンとケーキ
クロテッドクリームたっぷりのスコーンに、ヴィクトリア・スポンジ。紅茶はもちろんミルクティーで。
夕食:パブでステーキ&エール・パイ
温かいミートパイと一杯のエール。締めにはスティッキー・トフィー・プディングを頼んでみてほしい。
夜:ジン、サイダー、英国産ワインを楽しむ
パブやバーで、好みの一杯を探してみる。英国の食文化は、夜になっても終わらない。
もちろん、これはほんの一例だ。
サンデーローストやヨークシャー・プディング、スコッチエッグなど、まだまだ紹介したい料理はある。
ただし、せっかくなら「英国らしい食事」を、ひとつずつ試してみてほしい。
おわりに:英国料理がまずいのではない。私たちが英国の美味しいものを知らなかったのかもしれない
ロンドンに行けば、世界中の料理が食べられる。
それはこの都市の大きな魅力だし、筆者も否定するつもりはない。
しかし、英国の食文化を知らないまま、フィッシュ&チップスだけを食べて「イギリス料理はまずい」と決めつけるのは、さすがにもったいない。
ベーコンやチーズに始まり、パブのミートパイ、スコーン、数々のケーキ、そして多様な酒。
どれも英国の暮らしの中で育ってきたものだ。
今回ロンドンとケンブリッジを訪れて、筆者は改めて思った。
英国は、決して美味しいものがない国ではない。
美味しいものが、フランスやイタリアとは違う場所に隠れている国なのだ。
次に英国を訪れたときは、有名レストランを予約する前に、近所のパブやティールームを探してみてはいかがだろうか。
きっと、これまで知らなかった英国の美味しさに出会えるはずだ。
そして願わくば、帰国してから「やっぱりイギリスは食事がまずかった」と話す人が、一人でも減ってくれれば嬉しい。

