愛された天才は、その目で栄光を見られなかった

· アート
Section image

「画家としての自画像」(フィンセント・ファン・ゴッホ/1887年12月⁻1888年2月/パリ


2025年は”ゴッホの年”と言われている。大阪・関西万博の開催を記念して、大阪市立美術館では「ゴッホ展 家族がつないだ画家の夢」が7月5日から開催中だ。当美術館が今年3月1日にリニューアルオープンしたことにも併せて開かれた特別展に今回は注目したい


本展では、ゴッホの家族が売らずに受け継いできたファミリー・コレクションに焦点を当てた作品が並ぶほか、ゴッホと交流のあった画家仲間たちの作品や、ゴッホが影響を受けたとされる日本の浮世絵なども紹介されている。そしてテーマである彼を支えた”家族たち”の存在にも目を向けよう。ゴッホが弟・テオに宛てた直筆の手紙4通は日本初公開だ


ゴッホはどのように生きたのか、どのように愛されたのか、彼の軌跡をたどった本展をレポートしよう


家族がいたからゴッホは描き続けられ

Section image

「フィンセント・ファン・ゴッホの肖像」(ジョン・ピーター・ラッセル(1858₋1930)/1886年制作)

フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)はオランダの牧師の家で5人兄弟の長男として生まれた。16歳で画商となり、その後も伝道師や教師など職を転々としながら、27歳で画家となった。しかし、37歳という若さで自死(とされているのが定説)しているので、画家人生としてはたった10年間しかない。しかし、その10年間で1000点以上も描いている。しかし、その生涯で売れたのはたった1枚だけであった。

献身的に支えた弟・

Section image

「防水帽を被った漁師の顔」(フィンセント・ファン・ゴッホ/1883年制作/描)

ゴッホは画商でもある弟・テオの勧めで画家となった。ゴッホの才能を見抜いたテオが金銭的にも精神的にも支援したおかげで、ゴッホは描き続けられた。しかし当時は印象派の作品が人気で、暗い雰囲気のゴッホの作品はなかなか評価されなった

彼の作品が評価され始めたのは1890年ごろ。やっと彼の才能が認知され、世間が注目し、時代が彼に追いついた時にゴッホは麦畑で自死した。ゴッホは『早すぎた天才』だったのだ

作品を守った義妹

・ヨー

ゴッホの死後、その後を追うようにテオも半年後に亡くなり、残された義妹・ヨーは膨大なゴッホの作品を管理し、世に出すことに人生を捧げる。作品を売れば生活費に充てられるのに、そうしなかったのはゴッホの夢を叶えてあげたい一心だったのか。

ちなみにヨーは翻訳家で、絵画の知識はなかったため、ゴッホの死後に勉強したとされている。彼女の努力があったからこそ、ファミリーコレクションとして状態のいい作品が見られるのだ。

受け継いだ甥・フィンセント・ウィレム・

ゴッホ

ゴッホと同じ名前を付けられたテオとヨーの息子であるフィンセント・ウィレム・ゴッホは財団を設立し、オランダ・アムステルダムにゴッホ美術館を開館さた。


”人々の心を絵で癒したい”そんな画家の夢を叶えるべく、甥は尽力した。そのおかげでゴッホの死後135年経った現在も、ゴッホコレクションが今日まで引き継がれてきただ。


カラスは画家の死を意味る?

Section image

「カラスの飛ぶ麦畑」(フィンセント・ファン・ゴッホ/1890制作)

自画像シリーズや肖像画が目立つものの、素描や農村風景なども展示されている。展示室の最後には幅14mのイマーシブル・コーナーで、映像でゴッホの作品を鑑できる

その中で紹介されていたもののひとつに「カラスの飛ぶ麦畑」という作品がある。ゴッホはこの作品に描かれた麦畑の中でピストルを自身の腹に放ったとされている。不吉の象徴とも言われるカラスを描いたのは、死の予感が画家自身にあったかなのか


黄金の麦と対照的に、迫る黒い空が印象的だ。そして、中心の道はただの風景描写か、画家自身の歩道か。


「ゴッホ展 家族がつないだ画家の夢」は8月31日まで。



展覧会名:「ゴッホ展 家族がつないだ画家の夢」

会期:2025年7月5日~8月31日

会場:大阪市立美術館

所在地:〒543-0063 大阪府大阪市天王寺区茶臼山町1₋82 (天王寺公園内)





ライター:石倉佳奈

広告代理店で6年間営業マンとして勤務したのち、1年間日本全国の美術館をめぐるひとり旅へ。現在は美術館で看視員をしながらフリーランスライターとして活動中。国内の美術館を全制覇するのが夢。